橙猫の景色 橙雨      一  水面が虹色に光っていた。  焼けて炭になった木から何かが滲み出ているようだ。それが水溜まりに薄く広がり、流れて行く。  そんな様子をただ見つめながら、橙は雨が上がるのをじっと待っていた。  森の中の焼けた廃墟である。幸いなことに、雨宿りできる程度には屋根も柱も残っていた。実に中途半端だ。まるで自分のようだと、橙は思った。  別に妖怪になりたかった訳ではない。ただ死ななかっただけだ。自分を殺せるような者も現れなかった。猫はもちろん、そこいらの低級妖怪にも負けたことはなかった。猫又になってからもそれは変わらない。だからといって、自分が妖怪として決して強い部類では無いことくらいわかっている。所詮、井の中の蛙なのだ。  しかし、別に今の自分が嫌いな訳ではない。妖怪になったなら、妖怪らしく好きに生きていくつもりだ。死ぬ時が来たら潔く死ねばいい。  しだいに雨音が小さくなってきた。もうそろそろ雨も止むだろう。見ると、遠く雲の切れ間から見える夕日が虹を作っていた。 橙晴 一  日影の中で大きくなった目で仲間に合図を送る。  人間相手の狩りの最中である。すでに数匹の猫又で囲んでいる。  相手は猟師であるが老人だ。正直、食べても美味しくないし、狩りの愉しさも味わえない。乗り気ではなかったが仲間の訴えだ、しかたがない。  妖怪になってからすぐに、他の猫又たちに囲まれた。新入りへの教育といったとこだろうか。一度追い払ったら二度目は更に大勢でやって来た。煩わしいので群の親分らしい奴を殺した。すると、今度は自分が頭(かしら)として慕われるようになった。頭として振る舞うつもりは無かったが、結果として同じようなことをしている。今回の狩りについても同様である。   獲物の老人が銃をかまえた。瞬間、橙は前に飛び出して左右に跳びながら近づいていく。二回の銃声、周りから数匹の猫又が飛び出し一斉に襲いかかる。老人は腰に掛けた短刀に手を伸ばしかけるが、すでに首と胴は繋がっていなかった。  べっとりと血の付いた指を舐める。猟師の血は獣と同じ匂いがする、と橙は思った。 結局、生の肝を一口食べただけであとは群の仲間が喰った。  生肝ぐらいならば食べられると思っていたが、どうしても匂いが気になった。これならば兎なんかの方がよっぽど上等な味だと、橙には思えた。もっとも、他の連中は人間ならばそれで良いようだが。  いつの間にか酒が持ち込まれ、宴会になっている。何処からか盗んできたようだ。しだいに酔いも廻り、喧騒が大きくなっていく。  こういう光景を見ているのは嫌いではなかった。自分が他人の役に立てた、ということを確認できるからかも知れない。そう思い、橙は微かに笑った。 二  いつの間にか手に血の匂いが染み付いていた。  人間を襲う機会は確実に増えていた。橙は別段、人間を食べたいとは思っていなかったが、群の仲間は違った。今では人間の里の近くにまで狩場を広げている。 橙は人間を補食することを特に問題だとは思っていなかった。むしろ、妖怪なのだから当然のことだと考えていたくらいだ。しかし里に近づいて狩りをすることは、出来れば避けたかった。  里に近づけば、必ず人間の報復を受ける。  これは約束事であり、弱い妖怪である自分達が破れることではない。  群の皆も頭ではわかっている筈だ。  しかし、里で暮らすような人間の方が総じて旨いのだ。 紫朝 一  微かな春の匂いで目が覚めた。  紫は、一度大きく欠伸をしながら体を伸ばした。長い睡眠で凝っていた体が大きく音を立てる。 「〜〜〜っ……ふぅ……」  大きく息を吐き、立ち上がった。そのまま藍が来るのを待つ。どうせすぐに来るのだ。 「…紫様、おはようございます」  息を切らせながら、藍がやって来た。主人が目を覚ましたのを感じて、急いで来たのだろう。 「おはよう、藍。ところで私の着替えはあるかしら?」 「はい、今お持ちします」  藍が着替えを持って来る。紫が冬眠している間、しまってあったとは思えないほど、着心地が柔らかい。時折、陽に当てていたのだろうか。 「ところで、藍」  着替えながら確認するようにたずねる。 「なんでしょうか、紫様?」 「私が寝ている間、異常は無かったのかしら?」 「はい。何もありませんでした。結界にも全く問題はありません。」 「そう、なら良かったわ」  笑いながら答える藍を鏡越しに見ながら、紫は短く、そう言った。 二  変化には敏感だった。  それは、永く生きた事でより研ぎ澄まされた感覚になった。  毎年春に目覚める度に、藍は微妙に変わっていた。成長と言った方がいいだろうか。式として、それを許しているのは紫である。  実際、紫は変化を望んでいる。それを藍も無意識にわかっているようだ。  長い冬の間で藍がどう変わったのかは、春の彼女の表情を見ればわかった。  今、自分と会話しているだけで笑う藍を見て、紫は目を伏せたくなった。 三  気が付けば里まで来ていた。  特に目的があった訳では無い。外を歩けば少しは思考がまとまると思い、幻想郷をまわっていたのだ。  里の様子はあまり変わっていなかった。だが、どこか慌ただしく見える。少しの変化だが、紫にはそう思えた。  少し気になって、里から離れた博麗神社まで足を伸ばす。 「ご機嫌よう、神主さん」 「ん? ああ、紫さん。今年は遅いお目覚めで」  境内にいた小柄な神主に挨拶をする。高齢だが、妖怪退治の時には別人のようになる。振り向いた神主はずいぶん眠そうな顔をしていた。 「そういう貴方はずいぶん寝てなさそうだけど?」 「そう見えますか? いや、実は昨日遅くまで里で飲まされましてね」 「里で?」  紫が少し表情を変えてたずねたが、神主は気付いていない。 「ええ、なんでも最近妖怪猫達がよく現れるらしくて。退治を依頼されたんですが、その席でお酒が出ましてねぇ」 「なるほど、そういうこと…」  神主が笑っている後ろで、紫は静かに目を細め口の端を吊り上げた。 「ところで、今日はなんの御用で……?」  神主が振り向いた先に、既に紫の姿はなかった。 橙夜 一  突如、闇の中を無数の光が走った。  瞬間、橙は跳び上がり身を捻る。  里の外れに立っていた老人を襲おうとした、その瞬間だった。今思えば明らかに罠であった。  空中で、ざっと周りの気配を探る。光弾を発した封魔陣が五つ。そして、その中心に立つ老人が一人。仲間の気配は消えていた。全滅である。  着地した瞬間、激痛が走った。左腕と脇腹、避けきれなかったようだ。顔を歪める。  ためらうことなく、その場から逃げ出した。とても自分のかなう相手ではない、と橙は感じた。脇腹の傷は思ったより浅く、なんとか走るくらいは出来た。  老人が追ってくる気配は無い。しかし橙は振り向いて確かめる事も出来ずに、走り続けた。  突然、目の前に広がる夜の闇の中に亀裂が生じたような気がした。 一瞬の暗転の後、すぐに宙に放り出された。  草むらに転がる。顔を上げ周囲を見渡すが、混乱していて自分が何を見ているのかも判断出来なかった。無意識に立ち上がろうとして地面に左手をついた瞬間の激痛で、逆に少し冷静になれた。  改めて周囲を見る。自分が先ほどまでいた里の近くの林ではない。全く訳がわからなかった。  橙は、傷に障らないようにして再び立ち上がろうとしたが、力が入らず逆に仰向けに倒れ込んでしまった。  呼吸が荒い。左腕の感覚はなくなっていた。致命傷は避けたつもりだったが、封魔の攻撃はいつの間にか、思っていた以上に体を蝕んでいるようだ。このままでは、徐々に弱って死ぬだろう。老人が追って来なかった理由が今になってわかった気がした。  今が死ぬ時なのだろうか?  だとすれば、自分は何のために死ぬのだろう? いや、何のために生きたのだろう?  霞んだ意識の中で、橙はそう自問した。答えは出ない。  荒い呼吸の音だけが聞こえる。 「これはこれは薄汚い猫……。未だ生きているのかしら?」  声。頭上から聞こえる。 「あなた、生きているのなら返事をしなさい。今ならば、助ける事もやぶさかではないわ」  目を開く。橙は焦点の合わない目で人影らしいものを見る。声は出せなかった。 「あら、生きているみたいね。ならばこれも運命。あなたを生かしてあげる」  そう言って、目の前の妖怪は静かに笑った。綺麗な声だったが、橙が感じたのは薄気味悪さだけだった。 「それじゃあ、あなたは暫く寝ていなさい」  そう言う声が聞こえてすぐに、橙は意識が遠くなっていくのを感じた。抵抗はしなかった。 橙昼 一  暖かい布団の中で目を覚ました。  知らない部屋に寝かされていたようだ。橙は、自分を助けると言った妖怪の声を思い出していた。綺麗だが、全身の毛が逆立ちそうになるくらい薄気味悪い声。ここはあの妖怪の家なのだろうか?  体が重い。しばらく起き上がれそうにはなかった。自然と溜め息が出る。 不意に、ふすまを開ける音がして、誰かが入って来た。橙が目を覚ましている事に気付いて話しかけてくる。 「おや、気がついたようだね。具合はどうだい?」 「あ……体はまだ動かせそうにないです……」  橙は少し戸惑いながら答えた。  見たところ、相当力のある妖狐のようだ。彼女なら自分の怪我を治すことは出来るだろうが、あの時の妖怪の声とは違った。 「そうか、なら無理せずゆっくりと寝ているといい」  彼女はそう言って、大げさに頷きながら微笑んだ。 「えっと、あの…あなたが私を助けてくれたんですか?」  先程から気になっていたことを橙がたずねる。 「いやいや、君を助けたのは私の主人である八雲紫様さ」 「八雲……紫…………」 「そう。私は紫様の式、藍だ」  八雲紫。名前だけならよく知っていた。幻想郷を代表する大妖怪だ。 「まあ紫様は今はいないし、お礼は動けるようになってから言いなよ」 「はい」  藍は返事に満足したように頷いて、笑った。橙もそれにつられて表情を緩ませた。      二  時折、桜の花びらが部屋に入って来た。  開け放された戸からは、満開の桜の木が数本見える。花びらはそこから飛んでくるようだ。  橙は布団の上で、上体だけを起こして外を見ていた。  紫にはまだ会っていない。橙がもっと回復してからだと藍に言われた。体は少し動くようになったが、完全に治るまではまだ時間が掛かりそうだ。  たまに藍が来て橙の具合をみた。藍はその時に色々な話を橙にしてくれた。とりとめのないような内容だが、橙にはとても楽しい時間に感じられた。  藍がいない時分には寝ているか、もしくは今のように外を見ていた。  ゆっくりと部屋の中から外の景色を見るということを、今まで橙はしたことがなかった。そもそも、「家」と呼べる場所に住んだことがなかったのだ。寝泊まりしていたのは穴ぐらや廃墟、外を見るのは警戒しているときだけだった。  人間と獣。不意にそういう対比の言葉が頭をよぎった。  妖怪としてどちらの生活が正しいのかはわからない。ただ橙は、今のような穏やかな時間が好きになっていた。 三  桜の花がすべて葉になった頃、橙は紫と会うことになった。  藍に連れられて広い屋敷を歩いている。  橙はだいぶ動けるようになっていた。屋敷の中を歩くのは自由で、少し見て回ったが、その時紫には会わなかった。  橙は緊張していた。気を失う前に聞いた声と八雲紫という大妖怪の名前、会う前から想像は膨らんでいた。  不意に橙の目の前にある九本の尻尾の動きが止まった。ある部屋の前だ。橙が上を見上げると、藍と目が合った。橙の緊張を感じたのか、藍は安心させるように微笑んだ。  藍は部屋の方に向き直り、襖越しに訪いを入れる。 「紫様、橙を連れて参りました」 「そう、二人とも入りなさい」  襖越しの紫の声。  橙は一層緊張したが、前ほどの不気味さは感じなかった。 広い部屋だった。  奥に紫がいて、橙はその正面に座らされた。入り口の近くに藍が立っている。  橙は、妖艶な紫の雰囲気に呑まれていた。うつ向いたまま紫の言葉を待つ。 「橙…というのよね、あなた。もう傷は癒えたようね」 「…はい、おかげさまで傷は癒えました。ありがとうございます…八雲紫様」  頭を下げながら言う。緊張で声がうわずっていた。 「そう、本当に良かったわ。死にかけだったものね、あなた」 「はい、あのままでは死んでいました。…今は紫様に命を預けているつもりです」 「あら、そんなに気にしなくてもいいのに。別に恩を売るつもりでやった事ではないし」 「でも……」 「あなたの気がすまない、かしら?」 「はい」  橙の返事を聞いて、紫は少し考えるように指を口元に当てた。 「それじゃあ、しばらく藍の手伝いでもしてあげて。なんだか忙しそうだし」 「…はい、わかりました」  少し拍子抜けして返事をする。それを聞いて紫が微笑みながら頷いた。 「じゃあ、そういうことだから、藍、あとはよろしくね」 「え、はい。わかりました」  少し戸惑っている藍に任せて、紫はスキマに消えていった。 藍雲 一  井戸は母屋から少し離れたところにあった。  朝一番の仕事はそこから水を汲んでくることである。藍は橙にそれを命じて、自分は食事を作る準備をしていた。ただ、水がなければ料理ができないので、結局橙を待つことになる。  火の準備をしていると、橙が大きな桶に水をいれてやって来た。 「お待たせしました藍様、水です」 「ああ御苦労様、橙。じゃあちょっと火を見てておくれ」  橙の返事を聞いてから、水が必要な行程に移る。  料理を進めながら藍は時折、釜戸の火の様子を伺っている橙の横顔を見ていた。 これまで特に忙しいと感じたことはなかった。  仕事といえば結界の見回りと家事くらいで、どちらも藍にとっては楽なものだった。 だから藍は、紫が橙に「忙しそうだから」という理由で自分の手伝いを命じたことに少し疑問を感じた。直接藍への命令ではなかったが紫の指示の内容について、藍が少しでも思考する事は久しぶりだった。  あれから数日たって、橙もやることに慣れてきたようで、仕事も幾らか早く終わるようになった。  時間があるときには橙といろいろな話をした。大抵は藍が橙に何かを教えるような内容で、橙の方から尋ねてきたりもした。  藍にとってそれは楽しい時間に感じられた。 橙風 一  橙は常に藍についていた。  紫からそう命じられたのだ。  とはいえ出来ることは少なく、結界の見回りの時などには自分は邪魔になっているのではないか、と橙は思ったりもした。  数日に一度、藍は里に買い物に行く。人里に行くのは憚られたが、橙もそれについて行くことになった。やはり落ち着かない、と橙は思っていた。 「里は苦手かい、橙?」  そんな橙の様子を見て藍が尋ねた。 「はい……」  短く答えて下を向く。 「ふむ、まあ妖怪だしな、苦手じゃない方がおかしいんだろう」  藍があごに手を当ててそう言った。  結局、里で藍とした会話はこれだけだった。その後橙は藍の後ろで、人間と普通に接している彼女の姿をただ見ていた。 二  夕立の気配に慌てて帰路につく。  季節はもう夏である。橙が藍の手伝いを始めてから数ヵ月が過ぎていた。  手伝いをする期間について紫からは「自分が次に冬眠するまで」と言われていたので、もうあと半年もない。  空が暗くなってきた。湿気をはっきりと感じる。 「なんだか今にも降りだしそうですね」 「うーん……。家に着くまで間に合うかなあ?」  藍が顔をしかめて空を見ながら言う。 「藍様も雨は苦手なんですか?」 「私は式だからね。式は水に弱いのさ」 「そうなんですか?初めて知りました!」 「ああ。橙はなぜ雨が苦手なんだい?」 「私は猫ですから。猫はみんな濡れるのが嫌なんですよ」 「なるほどそんなものか」 「そんなものです」  そう言って橙は微笑んだ。 なんとか雨が降りだす前に家に着いた。  着いてすぐに、外から激しく雨の音が聞こえ始める。遠くから雷の音も聞こえる。 橙と藍は二人で戸締まりの作業をする。家に紫の姿は無いが、彼女がまともに扉から家に入ることはないので、構わず鍵をかけていく。  雨が降っている日はやることがない。戸締まりを終えると、とたんに暇になった。  二人でお茶を飲む。雨音は依然として強く聞こえる。 「紫様は何処に行っているんでしょうか?」 「うーん……何処だろう?特に聞いてなかったなぁ。また神社の神主でもからかいに行っているのかもね」 「神主様を……紫様は凄いですね」 「そうか、橙が死にかけたのは、あの神主にやられたからだったね」 「はい…勝てる気がしませんでした」  橙は紫から大体の事を聞いていた。自分が誰にやられたのかくらいは知っておきたかったのだ。  特に神主を恨んでいる訳ではない。あの後で紫に連れられて神社に行ったりもした。 仲間も自分も報いを受けて当然だった。里に近づいて殺されるのは低級妖怪の運命と言っても良い。そういう意味では仲間達は妖怪として死ねたと思う。今はそれを羨ましいとも思わない。  あの時は確かに死にたくない、と思った。自分が生にしがみつく事なんて想像したこともなかった。あの時にした自問の答えはまだ出ない。 「まあ、あの神主は特別さ。なんたって博麗だからね」 「そうですね」  ゆっくりとお茶を飲む。  雨が止むまで藍と話をしていた。 三  釜戸を覗き込むと、はっきりと熱を感じた。  橙は灰を退けて燠に乾いた木片を乗せる。いきなり薪を入れても直ぐに大きな火にはならない、と藍に教わっていた。  料理をする時の火の扱いにはだいぶ慣れてきた。薪を入れすぎて鍋を焦がす事ももう無い。  橙はじっと火を見つめながら、鍋を火から下ろす時期をうかがっていた。 「藍様、これはあとどのくらい煮れば良いんでしょうか?」 「うん?そうだなあ、今している音がもう少し小さくなったら下ろしていいかな。」  藍が野菜を切りながら答えた。 「音……ですか?」 「ああ、ぐつぐついってるだろう?」 「はぁ……」  橙は曖昧に答える。音は聞こえるが、これがどう変わるのか良く分からなかった。 結局、藍の指示に従って鍋を下ろした。ずっと耳を澄ましていたが、やはりよくわからなかった。  盛り付けた料理を運んで居間へ行くと、紫が既にそこに座っていた。 「あら、美味しそうね、橙」 「紫様。ちょうど良かったです。もう、食事の準備ができましたよ」 「そう思って出てきたのよ。勘が当たったわね」  紫が嬉しそうに微笑む。橙はどう返していいのか判らずに、紫の顔を見ながら料理を卓に置いた。 「あら、不思議そうな顔をしているわね」 「いや、そんなことは……」 「自分の予想通りに事が進むのは愉快なものなのよ。どんな事でもね」 「勘が当たって嬉しいってことですか?」 「まあ、そんな所ね」  そう言って紫はまた笑った。 「ああ、紫様。いらしてたんですか?」  藍が入って来て言った。 「あら、気がつかなかったの?私の式なのに連れないわね、藍」 「え、そんな…」 「冗談よ、冗談。そんな顔しちゃだめよ、藍。それより、早く食事にしましょう」 「……はい。橙、運ぶのを手伝っておくれ」  からかわれた事に気付いて、恥ずかしそうに藍が言った。  橙が藍について部屋を出る時も紫は笑っていた。 藍紫      一 夕焼けで金色に光る稲穂の様子を、束の間藍は見ていた。 里からの帰り道である。橙は、紫に連れられて何処かに行っていてここにはいない。 何処に行ったのかは知らなかった。今まで何度か同じようなことがあったが、橙から話を聞く限り幻想郷を回るだけで、特に何かをしているというわけではないようだった。 川が氾濫するとこのあたりは流れの一部になる。そのため、水田ばかりがあった。川を挟んで反対側は逆に水はけが良いので畑として使われている。初夏のころ、そこで今と似たような景色を橙と見た事を思い出した。広い畑の中で麦畑になっている一角だけが光っていたような気がした。 風で稲穂が揺れる。案山子の影がそれに合わせて微妙に動く。 刈り入れはそろそろだろう。それまでにもう一度里に来る用事はあるだろうか、と藍は考えていた。 なぜだか藍は、橙にこの景色を見せたいと思っていた。      二 湖に来ていた。 特に何をするわけでもない。目的があるとすれば、橙に幻想郷の各所を見せるということだった。橙は幻想郷で生まれ育ったはずだったが、その行動範囲は狭かった。 ただ、それも最初の数回だけで、幻想郷で橙に見せてない場所はもう無いと言ってよかった。やはりここはあまり広くない。それでも自分たちが望んだ場所なのだ。 不意に、魚影を追っていた橙の目がこちらに向く。 「夏に来た時より霧が薄いですね、紫様」 「そうね」 かろうじてだが、対岸がうっすらと見える。確かに夏に来た時より霧は薄くなっていると感じた。それに、湖面から冷たさを感じるようになった。山から流れてくる水はすでに冬の色をしていた。 「湖で何かするんですか?」 「なにもしないわ、いつも通りよ。散歩にでも付き合っていると思えばいいわ」 「散歩……ですか?」 「ええ、そうよ。それとも藍と一緒の方が良かったかしら?」 「えっ?いえ、そんなことは」 橙が、慌てて言った。 「でも、なんで藍様ではなく私を連れてくるんですか?」 「藍は一人でも仕事が出来るけれど、あなたは出来ないでしょう?」 「なるほど、そうですね」 納得したように橙が頷く。 「それに、あなたは藍の従者ではなく、私の従者なのよ」 紫は、口元に笑みを浮かばせながらそう言った。 湖から西の境界に沿って家に戻った。 橙がいるので素直に玄関から入る。すでに藍は帰宅しているようだ。 帰ってきたことに気付いたのか、藍が奥から出てきた。 「紫様、お帰りなさい」 「ただいま、藍。仕事はもう済んだのかしら?」 「はい、外でやるものは既に。これから夕餉の支度を始めようと思っていたところです」 「そう。御苦労さま。橙、あとは藍の事を手伝いなさい」 紫は、橙の方に向き直り言った。 「はい。わかりました」 橙が返事をして裏手に向かう。料理に使う水を汲みに行くのだろう。束の間、紫と藍は揺れる二本の尻尾を見送るようにしていた。 「では、支度が済んだらお呼びします」 「藍」 「はい?」 「今日は橙を借りてしまって悪かったわね」 橙に続いて行こうとする藍に、紫はそれだけ言って自室に向かって歩き出した。      三 野分で一時増えた川の水量も、今はかなり減っていた。 これから雪が降るまでが一番水量が少ない。人里では冬支度が始まっていた。 頃合いだ、と紫は思っていた。 冬眠を始めるのに明確な決まりは無い。そもそもその気になれば必要のない行為でもあるのだ。ただ、ここ数千年は冬眠をして過ごしてきた。今更その生活を変えるつもりは無かった。 藍を自室に呼んだ。 「何でしょうか、紫様?」 「……もう冬ね、藍」 扉の前に立った藍を見ながら紫は座ったままでそれだけ言った。目線はそのままで藍の返事を待つ。 一呼吸置いて藍が答える。 「……何時からお休みになりますか?」 「そうね、数日以内には」 「わかりました、準備はしておきます。何時からでもどうぞ」 「それから」 一礼して出て行こうとした藍を呼びとめるように声をかけた。藍がもう一度こちらを向く。 「橙を呼んできてもらえないかしら?」 「……はい」 もう一度頭を下げて藍が出ていく。 一見してもわからないくらい微かな、しかしはっきりとした動揺の色を藍は見せていた。こういう藍は初めて見るかもしれない、と紫は思った。 橙が扉の前に立つ。 初めてここに来た時のような緊張はもう見えなかった。紫は、橙に座るように促す。 「もうじき私は冬眠します」 紫は、橙が座ってからほとんど間も置かずに話を始めた。 「だから最初に言ってあった通り、もう手伝いはしなくていいわ」 「……でも」 「借りはもう返してもらいました。本来有って無い様なものだったのだけれど」 「……はい」 橙が少し俯いて返事をする。自分の式である藍ほどではないが、橙の感情は読みとりやすい。 「あとはあなたの自由よ」 わざと突き放すように言った。そのまま橙の顔を見つめる。橙の視線は定まっていなかった。 しばらく紫は、橙が何かを言いだすのを待つようにしていたが、橙の口から言葉は発せられなかった。 「まあ、今日はもう下がりなさい。今すぐというわけでも無いし」 わざとらしく溜息をついてそう言う。視線は外さない。 「……はい」 橙は小さくそう返事をして部屋から出て行こうとする。 「橙」 橙が襖を閉めようとした瞬間に声をかける。 「今まで御苦労さま」 そう言って体ごと橙から目線を外した。 背後で静かに襖が閉まる音がする。返事は聞こえなかった。 橙藍      一 水に映った自分の顔を、橙は見ていた。 夕餉の為に井戸から汲んだ水だ。井戸の水は季節が変わってもあまり温度が変わらないが、低い気温の中ではやはり一層冷たく感じられた。 もう冬であることを実感する。食材も何時からか冬のものが交ざるようになっていた。 自分がどうしたいのか解らなかった。 紫が冬眠したら、橙がここにいる理由は無い。漠然と元の生活に戻ることを考えていたが、どこかでそれを拒否したい気持ちがあった。今のままでいたいという思いが強くある。 しかし、元々恩を返す為にここに居たはずだった。その境遇は自分から得た結果ではなく、享受したものだ。それを望む事は背信的な事のような気がして、それ故、どうすればいいのか解らなくなっていた。 我儘だ、と橙は思った。どちらにしても自分本位のことでしかない。そもそも望んだところで、ここに居られるわけではない。だから、自分の中で本当のところはもう決まっているのかもしれなかった。 そうは思っても、考えることをやめることは出来ない。 水の溜まった瓶を抱えて台所へ向かう。 釜戸の煙突から煙が上がっているのが見えた。空にはもう星が出ている。      二 藍は、一人炬燵でじっとしていた。 聞こえてくる冬の雨音が伝える寒さから逃れるように、体を丸める。 自分で驚くほど、心は寂寥感で満ちていた。理由ははっきりとしている。 数日前、紫の冬眠と殆ど同時に、橙は家から去って行った。 橙が出て行く時、藍は紫と共に橙を見送った。そのとき何か声を掛けようとしたが、言葉が出てこなかった。橙は紫と少し言葉を交わした後、改めてお礼を言って去って行った。橙が何処に行ったのか、詳しく藍は知らない。 冬の間の孤独には慣れているつもりだった。毎年冬には一人だったのだ。 自然と溜息が出る。それを気に掛ける者は今この部屋にはいない。 閉めきった戸からは依然として雨音が聞こえる。長い冬の始まりの雨。これが雪に変わるのはあと数週間後だろう。それが再び雨になって、春が来るまではもっと長い。 春が来れば紫様がいる。そう考えた時、ふとそれだけでは駄目だということに、藍は気が付いた。自覚すると、それはより明確な思いとして感じられた。 再び溜息を洩らす。 藍は、橙に会いたくなっていた。      三 橙は山に依っていた。 山といっても頂上の方ではなく、麓から少し上がったくらいの場所だ。そこに小さな洞穴があり、雨風を凌ぐくらいは出来た。誰かが使っていた場所なのかもしれないが、今は橙しかいない。 煙が上手く逃げる位置で火を焚いた。そこで獲ってきた兎を焼く。肝だけはすぐに生で食べた。あとの肉は薄く削いで焼いたり、燻したりする。燻したものは数日もつ。 群れの中で生活していた頃は、あまりこういうことはしなかった。知識として知ってはいたが、わざわざ手間をかけて食材を持たせようとは群れの誰も考えていなかった。そもそも仲間内で分け合うと、大抵は全て無くなっていた。 今は一人である。兎一羽で二・三日分くらいの食事にはなる。雨や雪の日のためにも食材をもたせることは大事だった。 ここでの生活にも慣れてきた。生きて行くのに不都合なことは無い。それでも何処か釈然としないものが心の中にあった。 八雲家での生活を思い出す。藍や紫の顔がちらついた。      四 何日か雪の日が続いている。 数日続けて降ればその分、雪は積もるので、雪掻きをしなければ玄関が埋まってしまう。しかたなく、藍は雪掻きをしていた。今はちらつく程度の雪も、夜になると激しくなるだろう。 なるべく体が濡れないようにして作業をする。 慣れてはいたが好きな作業ではなかった。だが、冬の間の大半の仕事はこれである。 結界の見回りも重要な仕事だが、実際は激しい雪の日が多く、式神である藍が外を飛び回ることは難しい。そのため藍は、雪の日は家に居て良いと、紫に言われていた。外に行く用事は、少ない晴れの日に済ませるが、その時、玄関が雪で埋まっていては何もできなくなってしまう。だから結局、雪が小降りの時に雪掻きをしてしまうしかない。 作業を終えて一息つく。炬燵に入り、冷えきった体を温めるようにお茶をすする。 冬の間はどんな事をするのも一人だ。 ふいに暦に目を向ける。春はまだ先だった。      五 山は雪で覆われていた。 もう春まで融けることは無いだろうが、足跡が残るので、兎や鹿を探すのには好都合だった。食料の心配はない。 今、雪は降っていないが、相変わらず空は薄い灰色の雲で覆われている。 橙は、薪に使う木を集めて洞穴まで運んでいた。生木の枝は使えないので、かなり広範囲を歩き回って集めたものだ。それでも、雪の上に落ちているものなので、しばらくは乾燥させた方がよさそうだった。 どうしても八雲家での生活が忘れられなかった。時々、夢に見たりもする。 自分はあの家に戻りたいのだと思う。 そうわかっていても、橙はこの山から動くことは出来なかった。行こうと思えば、雪の中でも二刻ほどで行ける。理由は解らない。しかし、足は動こうとしないのだ。 出てくるときは、頭で考えた理屈があった。今は、それもよく解らなくなっている。 歩きながらそんなことを考えながら洞穴まで帰ってきた。運んできた枝木を洞穴の入り口から少し奥に行った所に置いた。穴の奥は湿気が溜まっていて、木を乾燥させられない。 既に乾いている薪を燠の中に入れ、火を大きくする。そうしてしばらく暖をとってから、拾ってきた木を折ったり割いたりして薪を作り始めた。 木を割く音が洞穴に響く。それを何処か遠くに聞きながら、橙は作業を続けた。そうしながら考え続ける。自分が望むものは何なのか。自分の中の何がそれを邪魔するのだろうか。 不意に、紫の言葉が頭をかすめた。 ――あとはあなたの自由よ ――今まで御苦労さま 引っ掛かっているのは、きっとその言葉なのだと、橙は思った。 結局、自分が気にしていたことは、紫様に必要とされていたのか、ということだった。 それがわかると、澱を取り除いたように自分の心が見えてくる。 他人に必要とされないと行動できないなんて、自分は何時からこんなにも人間的になっていたのだろうか……。 橙は、嘆息しながら手に持っていた木片を火の中に放り込んだ。火の粉が飛び、火勢が少し弱くなる。まだ乾ききっていない木は、燻ぶるような音と煙を出して燃え始める。 紫に拾われる前のことを思い出す。あの頃はまだ、妖怪で獣だった気がする。 ……いや、あの頃も群れの仲間に必要とされて、狩りをしていたのだ。自分一人だったら、今のように山の獣だけを食べて生きていたに違いない。 「結局……」 誰にともなくつぶやく。 「私は変わっていないのかな……」 ふと笑みがこぼれる。それが安堵からなのか、自嘲なのか、自分でも判らなかった。      六  いつの間にか眠っていたようだ。外は既に暗くなっている。 空を覆っていた雪雲は何処かに消えたようだ。雪に覆われた山の斜面は、爛々と降り注ぐ月光によって青白く光って見える。僅かに残っている燠火からは確かな熱と温かい光を感じるが、その橙色の光は、雪面が発しているそれと比べるとどこか頼りない。 ――春はまだ遠い。  白い息を吐きながら改めてそう感じた橙は、しかしながら自分でも意外なほど落ち着いていた。思考も整然としている。  橙は洞穴から歩み出て、いま一度真冬の鋭く冷え切った空気を、静かに吸い込んだ。 「紫様……」  ぽつりとそう呟き、遥か頭上の月を仰ぎ見る。 自らの吐く白い息によって、一瞬、目線の月に霞がかかる。  やるべきことは既に決まっていた。そのための思考もすでに終わった。あとは行動するだけである。  橙は、頭上に向けていた視線を、ゆっくりと東へと向けた。  頬を撫でる冷風も、そちらから吹いている。 橙猫      一  空気が澄みきっている。 中天から注ぐ月光は否応なく影をつくり、闇に乗じる人妖を浮かび上がらせる。  境内には、鳥居を背に少女が立っていた。月の光を一身に受けているその少女の目だけが、月光とは違う怪しい光を放っている。爛々と輝くその橙色の瞳は、拝殿の前に現れた神主へと向けられていた。  少女から発せられている妖気までもが、橙色に光っているような錯覚を、神主は覚えた。隠されることのないその妖気は、社殿の奥にまで届いている。  少女の顔には見覚えがあった。 「紫様のところの猫か……。こんな夜中に何か用があるのか?」 「橙といいます、お久しぶりです。今は紫様のところには居りませんが……。ところで、神社に用はあるのですが、神主様に直接用があるわけではありません。あまり気になさらないでください」 「ほう、そなたの妖気はそう言っていないようだが?」  橙色の目を細めて、橙がにやりと笑う。 「妖気は神社に向けているつもりだったのですが」 「抜かせ。それに、どちらにしても同じことだろう?」 「そうでしょうか?」 「そうさ、神社に妖気を向けられて黙っている神主がいると思うか? ましてこの博麗が?」 「なるほど。では神主様に用があるということになりますね。黙って神社に手を出させてくれそうにもないですし」  橙が拝殿に向かって一歩踏み出す。それと同時に、今まで以上の妖気が噴き出してくる。 「神社に手を出すか……そんなことをしてどうするのだ?」  神主も一歩踏み出しながら、懐から霊符を数枚取り出す。 「さて、どうするのでしょう?」  橙は、どこか楽しそうにそう言って、妖気をさらに凝縮させた。そして、地に伏せるように頭を低くする。  妖気、それに爪と牙。跳躍から繰り出されるであろうそれらの攻撃を、全てたたき落とすつもりで、神主も身構えた。  意識を心の底に沈め、殺意で包み込む。それが、妖怪として闘うことだと、橙は何時からか理解していた。獣とも人とも違う。この状態になったのなら、相手か自分が確実に死ぬ。今回の場合は後者だろう、と殺意に包まれた心の片隅で自嘲する。それでも顔は自然と嗜虐的な笑みをつくる。  不意に、風が止んだ。一瞬できる静寂を嫌うように、橙は左右に跳びながら妖気の塊を神主に叩きつける。 同時に、神主から膨大な霊気が発せられた。妖気と霊気がぶつかり甲高い音を立てる。 風。頬のすぐ横を霊気の槍が通り抜ける。身を翻しそれを避けながら神主に近づき、喉元に爪を立てようとするが、霊符で防がれた。そのまま後ろに跳び反動を逃がす。 距離は元に戻ったが、互いに社殿を横に見る位置に変わっていた。 肩で息をしているが、妖気が充実しているのがわかる。死に近づくにつれて妖気だけが充実していく。妖怪は闘って死ね。きっとそういうことなのだろう。 神主が前に出る。右手には霊符。左手からは大量の霊弾を放ち、橙の退路を絞る。そちらに逃げれば、霊符にやられる。橙は迷わずに、まっすぐ神主へと跳びかかる。妖気で無理やり霊弾をはじくが、衝撃は腕に残る。符。目の前まで迫っていた。左手で受けた。痛みが上ってくる前に、自ら肘のあたりから腕を切断する。そのまま、目を剥いている神主の右肩口に牙を立てた。鎖骨が砕ける音が境内に響く。空いている右手で心臓を抉り出そうとするが、霊気の渦で引き剥がされた。 口の中に残っていた骨を吐きだす。血と肉はそのまま飲み込んだ。 再び、互いの距離が戻った。 隙は突けた。それでも、勝てるとはどうしても思えなかった。 目の前の神主は、確かに鎖骨が砕けている。全身が痺れてまともには動けない筈だが、それでも霊気を操ることで闘おうとしていた。神主はそこから動くことなく橙と闘える。 博麗の霊力。それによって作られる霊気は橙にとって、抗えるものでは決して無い。それは先程、霊弾をはじいた時の衝撃から、嫌というほど実感できた。こちらは全力の妖気。一方で左手を軽く振い、数多放出した霊気弾の一つ。 これで、僥倖なのだろう。 切り落とした左腕を視界の端にとらえながら、そんなことを思った。落ちている腕が作る僅かな影は、血の味で熱くなりかけた殺気を冷たくしてくれる。 月はもう中天にはいない。 「……あなたの血はあまり旨くないですね。神職とはいえ、やはり老人ということですか?」 「ふん、良薬は口に苦し、と言うだろうが」 「なるほど、毒と薬は同じようなですからね」  橙は、神主の方を向いたまま拝殿を視界にとらえるように一歩だけ移動した。お互いの距離は変わらない。 「あいにく昨日は飲み過ぎたのでな、毒の味だろうよ」  神主は、目線だけで橙を追う。肩口からは血が流れ続けている。 「毒だと分かっていてなぜ飲むんですか?」 「さて、どうしてかね」  ふ、と神主が微かに笑った。神主の周りで、霊気が静かに塊を作ってゆく。  肘までしかなくなった左腕を前に出し、構える。切断面に妖気を集中し、逆に強固に固めている。  橙が一歩移動したことで、神主の視界に鳥居が入っていた。 鳥居は、ちょうど結界の境目にあたる。今境内に充満している霊気や妖気はそこで遮られ、外には漏れ出ないはずだ。  気になることが一つあった。 「ところで、おぬしはいったい何を待っている?」 「……機を」 「機、だと? 私を殺す好機は先程訪れたようだが?」  鎖骨を砕かれた直後に、距離を詰められていたらわからなかった。もちろん、簡単に殺されるとは思わないが、それでも向こうからしたら千載一遇の好機だったはずだ。橙がそうしなかったことで、今は霊気だけで戦う構えがとれている。自分を殺すことは、逆に難しくなったはずだ。橙がそんな機をただ見逃したとは思えない。 「私にはそう見えなかっただけです」 「…………そうか」  とにかく橙は何かを待っている。それだけしかわからない。 ならば、話をすることによってこれ以上時間を使うことは、橙を利することになる。 「悪いが、機はもう訪れない」  会話を打ち切るようにそう言い放ち、封魔の陣を周囲に展開する。飛車にも角にも思える封魔陣は、王が動かなくても玉を獲れる。 神主は、そう確信していた。  神主の繰り出した陣から、無数の霊気弾が橙に向かって飛んでくる。前後左右に跳びながらそれらをかわし、橙も妖気を飛ばす。 交差する光弾は、お互いを捉えずに独特の色彩を放ち爆ぜる。敷石が吹き飛び、にわかに塵埃が立ち込め光弾を線として映し出す。爆ぜ、拡散する光線は、さながら紫電の発するそれのように塵埃の雲中を走ってゆく。 その光景が繰り返されるたびに視界は不明瞭さを増し、両者の距離も常に変化してゆくが、それでも橙の双眸は神主を捉え続けている。 ――待っている。  深く抑えられた心の片隅で、そう小さく呟く。  博麗神社は幻想郷でも特異な場所であり、且つ重要な結界の要である。それは、橙が紫から教わったことだ。この要地で何かが起これば、藍や冬眠中の紫にそれが伝わるであろうことは容易に想像がつく。  つまり橙は今、自分の存在を二人に伝えるためにここに居る。そのための妖気と戦闘だった。 紫や藍にとって、妖怪が神主と戦っているなどということは些事にすぎない。そんなことでは、二人はここには現れないだろう。 では、その妖怪が自分であった場合はどうか。そこに知りたかった答がある。自分の全てを懸けるに値する答だ。  弾が吹き飛ばした敷石の破片がいくつか当たった。細かい傷は増えてきている。  神主の顔だけは見えていた。封魔陣を展開されてからは、全く近づくことができない。こちらが飛ばした妖気弾も、陣から出る霊気にたたき落とされて神主には届かない。  だんだんと不利な体勢になってきているのは明らかだった。神主は、こちらを締め付けるように、一手毎に退路を狭めてくる。  ここから形勢が逆転することは無い。それでも、目的があれば戦っていられる。答を知らない。ただ二人に会いたい。まだ、生きている理由があるのだ。  右手に込めた妖気で、無理やり退路を作る。衝撃が体全体に伝わる。口の中にあたたかいものがあふれてきた。それでも、生きている。時間稼ぎにしかならなくても、これでいい。  一瞬の間をおいて、土煙の中を再び光弾が飛び交いはじめた。      二  藍は、月光の下を疾走していた。  青白い雪面を蹴り上げ、跳ぶように走る。上りでなければでは、そうした方がただ飛ぶよりも速い。  風が耳を切る音がやけに煩く聞こえる。  ただ、急いでいた。詳しい事は、よく分からない。  ふいに感じた妖気が、橙のものであることはすぐに分かった。それで目が覚めたが、感じていたものがすぐに闘争の気配に変わったことで、体が自然と動きだしていた。寝床から跳ね起きて、そのまま家を飛び出してきた。紫様には、報告してこなかった。ただ、神社のことは寝ていても伝わっているはずだ。 神社へは、この速さならば半刻程で行ける。茶の湯も冷めないような時間だが、今の藍にはいかにも長く思える。 紫様は動くのだろうか。自分は、動いている。橙の存在で心が動いたのだ、と思う。  山と山の間を、跳んだ。樹木の間に着地し、また跳ぶ。小枝がいくつか体にあたって折れた。  視界の奥に小さく鳥居が映った。同時に、神社が結界で覆われているのを、藍は見た。しかし、見えるだけでまだ遠い。  相変わらず風の音が煩い、と藍は思った。 橙猫の景色      一  痛みは感じない。ただ、確実に動きは落ちてきていた。  右腕は上手く上がらない。膝が笑う。呼吸する度に気管が奇妙な音を立てている。しっかり働いているのは目だけだろう、と橙は思った。  それでも、まだ生きている。答を待っていられる。  今、封魔陣は神主の左右に広がって展開している。広範囲から橙を囲むように霊気を飛ばしてくる。橙は、それに捕まらない様に跳躍しつつなんとか反撃の妖気弾を放つが、やはり神主までは届かない。  気が付けば、流れ弾が沿道に寄せられていた雪を舞い上げ、きらきらと光っている。そのせいか、いくらか土煙は収まってきた。視界はいくらか良くなったが、それによって弾の数はむしろ多くなったように感ぜられる。舞い上がった雪のせいか、眼下に迫る弾幕のせいか、ふと背筋に冷たさをおぼえた。霊気弾は一陣の風をつくって、橙のすぐ横を走り去ってゆく。  やはり、死は怖いのか。心の奥で、望む答が現実になると信じているから、きっと怖いのだろう。ふと、そう思った。それなら、やはり生きて二人を待っていなければならない。  一度着地して、蹴り上げるように横に移動する。脚に力が入らなくなってきているからか、自分で想定していたよりも短い跳躍になった。迫る弾をなんとか右手で弾き、その勢いで転がるように移動する。右腕が完全に潰れた。肘の上を自ら噛み砕いて、霊傷が上がってくるのを防ぐ。しかし、一噛みでは完全には落とせない。続いて迫る弾幕を避けるために跳躍した衝撃で、どうにか右腕は切り離された。  髄を伝う衝撃が多少の痺れを右上半身に生じさせたが、なんとか動くことは出来る。  着地してすぐにまた跳ぶ。しかし、弾幕を抜けるには力が足りない。そう思ったが、妖気で加速する間はない。右足に衝撃が奔り、そのまま地面に落ちた。 妖気で防御はしたが、足は潰れていた。それでも、やはり痛みは感じない。  上体を起こし、なんとか神主の方に体を向ける。 いつの間にか、封魔陣の攻撃は止んでいた。ただ、神主の手には霊気の槍が握られている。あれで止めを刺すつもりだろう。 あれで、死ぬのか。そう思うと、怖い。まだ生きているのだと強く感じる。そして、死ねない理由もある。 ゆっくりと、妖力だけで躰を動かす。立ち上がり、神主を見据える。しかし、視界は薄暗い。血を失いすぎたのかもしれない。 神主の霊気が揺らめく。槍がそれに合わせて宙に浮く。できるだけの妖気で防御をしなければ。そう思った。 光。暗いと思っていた視界が白く変わった。同時に、すっ、と胸に何かが入ってきたのを橙は感じた。痛みはない。まだ生きている。 白い視界が、また暗くなってきた。ただ、月が見える。自分は、倒れているのだろうか。ゆっくりと首を回す。薄暗い視界の端に、藍がいるような気がした。 笑いかけよう。そう思ったが、暗くてなにも見えなくなっていた。     二 白い光が見えた。 その光の中で、橙の躰を霊気の槍が貫いていく。橙の躰が木偶のように吹き飛び、地面を転がっていった。 光は橙に吸い込まれるようにして、消えた。 その光景が何を意味しているのか、藍には考えられなかった。目の前の薄い結界を乱暴に破り、境内に降り立つ。 一歩、踏み出そうとして、よろめく。足が震えていた。なぜ、震えているのか。目の前の光景がそうさせているのか。理解してはいけない気がした。 月の光は変わらず境内を照らしている。視界は鮮明だが、暗い。胸の奥から暗さが押し寄せてくる。 ふいに、仰向けに倒れている橙の顔がこちらを向いた。 目が合った。 瞬間、橙が笑ったように見えた。思わず駆け出そうとして、再びよろめく。 そのまま、ふらふらと覚束ない足取りで橙に近寄る。 「橙…………」 橙のそばに膝をつき、躰を抱き寄せる。覗き込んだ瞳に、生の色はなかった。 「ああ……」 それを見た瞬間、涙が溢れ出てきた。 「橙……橙……」 橙の顔を胸に押しつけるように強く抱きしめる。まだうっすらと温かい橙の顔に、涙が落ちていく。 藍は理解してしまった。 私が橙を必要としていたことを。橙が私を信じていたことを。そんな橙に私が何もできなかったことを。 最後に目が合った時、橙は笑った。笑いかけてきた。私はそれにも応えられなかった。 心の中に何かが拡がっていく。それは止めようもなく、嗚咽となって外に出ていった。 不意に、足音が近づいてくるのが聞こえた。 「…………おぬしは、何をしに来た?」 「…………」  神主の声。頭上から聞こえたが、そちらを見ることはしなかった。ただ、首を横に振る。 「…………そうか」  それをどう受け止めたのか、神主はそれだけ言い、去って行った。     三  藍の嗚咽だけが、境内に響いていた。 橙の頬が、落ちた藍の涙で光っている。生気の抜けた白い肌が照り返す月の光は、やはり死の色しか感じさせない。 藍は、橙の顔を服の袖で拭った。見れば、橙の顔には血も付いたままだった。  綺麗になった橙の顔に触れる。やけに冷たく感じた。 「藍……」  声。どこからか聞こえた。 「…………紫様」  顔を上げずに応える。それは聞き慣れた主(あるじ)の声だった。 「藍」  もう一度、先程よりもやや強い語気で名を呼ばれた。 「……はい」  顔を上げ、声の方へ向ける。紫は無表情で藍だけを見ていた。 「藍、あなた泣いているの?」  自分の頬を無造作に触る。涙は流れ続けていた。 「……はい」 「そう」  紫の視線が、橙の方へ落ちる。それは束の間のことで、視線はすぐに藍へと戻った。紫の表情は変わらない。 「橙が死んでしまったのね」 「…………」  ただ確認するような口調。どう応えればよいのか判らず、藍は黙っていた。 「それで、泣いているの?」 「紫様、あなたは……」 ――悲しくないのですか  そう言いかけて、止まる。自分は何を言おうとしているのか。なぜそんなことを。それが、はっきりわからない。 「私が……なにかしら?」 「……いえ」  ふと、なぜ紫がここにいるのか疑問に思った。橙のことが気になったのか。あるいは、神社のことが気になったのか。 いずれにしても、遅い。来たのは全てが終わった後だ。それでも、わざわざ冬眠から目覚めてここにいる。ならば、私が到着するのを待っていたのか。だとしたら、なぜ待ったのか。 「紫様、……紫様はなぜここに?」 「……わからないかしら?」 「どういうことでしょう?」  心が揺れていた。どこか怒りに似た感情が心の底で芽生え始めている。答はどこかでわかっているのかもしれない。しかし、疑問は口から出ていた。 「きっと、あなたが想像している通りよ」 「それは」 「あなたの反応を見に来たの」  胸の奥が、大きく脈打った。 やはり、心のどこかでわかっていた。思考もようやくそれに追いつく。 「……紫様は、すべて知っていたのですか? 橙が動く前から?」 「ええ、わかっていたわ。あの子がどう行動するのか、ということは」  体中の血が、熱くなったような気がした。この感情は、やはり怒りなのかもしれない。 「それではなぜ?」 「言ったでしょう? あなたの反応を見に来た、と。過程に干渉してしまっては結果を得たとは言えない」 「橙の死は、紫様にとって過程でしかないのですか?」 「結果よ、すべては。あの子が動いたことも、あなたが間に合わなかったことも」 間に合わなかった。その言葉が心に重くのしかかる。具体的にどうすればよかったのか、それはわからない。ただ、後悔だけが滲んできていた。外に向かう怒りと、それは混じり合っていく。自分の行動で結果が変わったのかもしれない。そう思うと、怒りは自分自身に向かっているような気がした。 「……私の反応に、何を求めたのですか?」  視線を橙に落とし、呟くように尋ねた。主の心積りなど、訊くものではない。そうわかっていても、言葉は出ていた。 「私自身の結果」 「……どういうことですか?」  言葉とともに、目線を再び主に向けた。紫の目線は、何処か虚空を見ているように見える。 「…………」  答えはなかった。ただ、何かを噛み締めるように、どこか一点を見つめている。  見ているのは、私の心なのだろう。それが、彼女の結果になっているはずだ。しかし、それだけではないような気もする。 私の言葉を待っているのかもしれない、ふと、そう感じた。いや、何かを言うべきなのだと、感じた。それが、自分の心から出たものなのか、彼女の表情から感じたことなのかはわからない。 「……私は、悲しいです。橙が死んでしまったことが」 感情を口に出す。紫はこちらに目を向けていた。 「悔しいです。間に合わなかったことが。そして、力を持ちながら何もしなかったあなたに憤りを感じます」 式神として、言うべきでないことを言っている。それはわかっていた。 「あなたが私の心に何を見たのか、それはわかりません。しかしそれは橙を見殺しにしてまで見る価値のあるものだったのですか? 橙の死を些事と思えるほど重要なものだったのですか?」  だんだんと声が大きくなってゆく。感情はあふれていた。 「主のあなたに向かって言うべきではないことなのはわかっています。それでも、あなたへの、そして私自身への感情は抑えられないのです」  涙は流れ続けているのか、それはわからない。しかし声はしっかりと出ている。 「でも自分ではよくわからない、この奔流はどこに向かうのでしょう? 主よ、あなたには絶望も希望も感じる。私にできないことでもあなたならできるのではないですか? その絶大な力で、この瞬間にも結果を変えられるのではないのですか?」  それだけは訊かなければならない。全ての感情の源泉、そして流れの向かう先を決定させる問いだった。 「過ぎたことは、変えられない。力の有無に関係なく、それはこの世界の大いなる理を冒すこと。私にはできない」  理という言葉に、意味は感じなかった。境界を弄ることと何が違うというのだろうか。 「それは、可能だがやらない、と、いうことですか?」 「可能かどうかはわからないわ。ただ、どちらにしても私には資格がない」 「資格?」 「私は、橙の死を結果として選択した。だから、私にはその事実を曲げる資格はない。……藍。あなたは、この結果を受け入れるのかしら?」 「……受け入れたくありません。たとえ、あなたの命であっても。しかし……私には力が、ありません……」 「藍。あなたの望む力は、ある。資格も、ある。あなたはあなたを知っているはずよ」 言われていることの意味がわからなかった。 「……どういうことですか?」  「あなた自身の存在を理解すること、そして覚悟ができれば、きっとあなたはあなたの結果を得られる。今の地点を、過程にできる。私は、あなたの行動をすべて受け入れる。それが私の結果」  自分自身の存在とはどういうものか、それを考えた瞬間、形のある何かが体を突き抜けるような感覚とともに、全てが理解できた。 「……式」  確認するように呟く。橙を式とすること。それができれば、もう一度橙に会えるかもしれない、橙と話せるかもしれない。  しかし、式とは道具である。橙との関係としてそれを望んでよいのか。橙の魂魄がその関係を受け入れるのか。そもそも、自分にそれだけのことができる力があるのか。それらはわからない。 逡巡するべき理由はいくらでもある。それでも、既に覚悟はできていた。 「紫様、私は橙を私の式とします」  依代となる橙の躰を抱きしめたままの姿勢で、そう主に宣言した。 「そう。覚悟は出来たのね」  紫は、瞑っていた目をゆっくりと開けて、そう言った。 「はい」 「あなたなら、きっとできるわ」 「ありがとうございます」 「それで、その後はどうするのかしら?」 「後?」 「言ったでしょう? あなたの行動をすべて受け入れる、と」  不意の、質問だった。しかし、答はすでに出ている。 「そうですね、橙と相談してから決めます」  微笑みながら、そう答えた。行きつく結論はきっと、半年前のような三人での生活だろう。 「……そう」  答えた紫が少し笑ったように見えた。      四  温かかった。  なぜ温かいのか考えて、それから自分が布団で寝ているということに気付いた。  懐かしいにおいがする。もしかしたら夢なのかもしれない。体は十分に動かせそうだった。 上体を起こす。布団の横に桜の花びらが何枚か落ちていた。開け放たれた戸からは、満開の桜の木が数本見える。頬を涙が伝っていくのがわかった。 不意に、ふすまを開ける音が聞こえた。                              (橙猫の景色 了)